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和歌で訪る『奥の細道』仙台

●朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて 枯野の薄 形見にぞ見る(西行)
この歌から「かたみのすすき」という名所が生まれました。この塚に生えている薄は道祖神社の北方1キロ、車で5分くらいの所にあります。「藤中将実方の塚」として1000年以上も語り継がれ、きちんと保存されていることに和歌の力をあらためて実感する次第です。西行を崇敬していた芭蕉はここを尋ねたかったのですが五月雨の道のぬかるみに諦め、武隈の松を見た後は無念の思いで笹島を遠望し仙台に向かいます。    笠島は いずこ五月の ぬかり道(芭蕉)

●東方の 常世國の 日高見は 日の本はじめ 祀りごとせむ

青葉城を回り込んで流れる広瀬川は日辺で名取川に合流して一気に太平洋に入ります。名取大橋を渡り伊達政宗六二万石の城下町の仙台に入ったのは、もうたっぷりと陽も沈んでいるのでホテルに直行し、芭蕉も泊まった國分町で牛タンを食べながら往時を偲ぶために一杯やることにします。
 明治四年の廃藩置県で仙台藩を仙台県としたのですが、八世紀に記された『続日本紀』に「宮城郡」としてみえるので、まもなく宮城県と改称したのですが、それよりずっと神代の昔、仙台平野は「日高見」と呼ばれていました。
 日高見は宇宙祭祀の拠点として神々に最も近い聖地であて、日本の心臓にあたる所です。
 磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の呼称を陸奥(みちのく)と言いますが、しかしなぜミチノクと言うのか知れていませんでしたが、神代にアマテル神が若き頃、日高見の多賀におられたトヨウケ神に天の道を学び、「道の奥義」を捧げられたのでミチノオクギがミチオクになり縮まってミチノクになったのです。
 その中心地であったとされる多賀城域は、後に8世紀初め大和朝廷の蝦夷対策の一環として多賀城が築城された所でもあります。北側に旧塩竃街道が通っていて陸奥総社宮がありますし、反対の南門の近くには、壺碑がお堂の中に安置されています。また近くに東北歴史資料館があって、ここのランチはとてもおいしいのです。
 
 ● ミチノクの 奈良の国府の 多賀城跡 壺のいしぶみ ながながめくに

 芭蕉も日本の壺としてのミチノオクの多賀城にある「壺の碑」を訪ね、昔をしのび俳諧の道の奥義を悟って涙をこぼしたと記しています。歌枕の「末の松山」や「沖の石」を訪ね、その後、塩竃神社や御釜社の製塩用の大釜を見物しています。
 塩竃を後に「松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず」と絶賛している風光明媚な松島へは船で渡っていますが、車で走ると20分ほどで着きます。
松島湾の観光船が発着する騒がしい港から左手に突き出た島に五大堂が見えます。足下から波が寄せたり返しが見える橋を渡り五大堂を見物した後は、伊達政宗が五年の歳月をかけて再興した瑞巌寺を見るのも結構です。


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