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和歌で訪る『奥の細道』平泉

 松島を後に海岸線を石巻に向かいます。石巻の由来は北上川河口の住吉神社の神石(烏帽子岩)に川流が渦巻く巻石が石巻になったと伝えます。旧北上川に臨む住吉公園にその巻石が現在遺されているそうですが、寄らずに北上川に沿って、一関街道を登米、花泉町、一関と義経が京より下り藤原秀衡の所へ向かった道をたどります。

  ●衣川 束稲山に 別れ告げ 義経主従 高舘去りぬ

 一関に着くと左に折れ国道4号線(奥州街道)を8キロほど北上すると、いよいよ栄華を誇った平泉に着きます。まずは右手の東北本線をまたぎ、義経の木像を祀ってある高舘に上ります。『義経記』によれば、武蔵坊弁慶、片岡八郎、鈴木三郎、亀井六郎、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢三郎、備前平四郎の総勢8人が華々しく戦って主従共々、最期を遂げた場所が高舘です。高舘から遠望すると正面に北上川を夾んで束稲山が大きく裾のを広げています。
 義経の歴史はここで閉じるのですが、はたして世界的に見ても希な第一級の戦術家である義経が主従共々、討たれるのが解っていて、戦い死ぬことなんてあるんでしょうか。集団自殺以外、万に一つもありえないと私は思うのです。
この話しになるときまって、作家のS先生はあきれ顔をして、「あんたってバッカね」と言ったまま、言葉を失い無言の時間が流れます。勿論、歴史学者にも通じないことは百も承知の上ですが、しかし民間伝承においては逃走経路が、かなりはっきりと残っているから不思議です。
 義経がジンギスカンにならないまでも、出奔して岩手県の宮古を経て青森から北海道に逃走したと考える方が自然です。補足すると義経とジンギスカンの生まれは、ほぼ同年で、高舘で義経没後17年後にジンギスカンは即位しているのです。

  ●金色の 蝦夷の都 平泉 一百年の 栄華を誇り

 衣川の流域は前九年・後三年の古戦場で俘囚の長の阿倍頼時や、奥羽に覇権を確立した藤原清衡が戦った所です。その初代清衡が二十二年の歳月をかけて数々の大伽藍を建立し、東北独立王国の文化の拠点としたのが中尊寺です。中でも金色堂の華麗な室内と安置された三代の遺骸は当時の平泉のすばらしい文化を彷彿させるものがあります。


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