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和歌で訪る『奥の細道』達谷窟

中尊寺(ちゅうそんじ)・毛越寺(もうつじ)を巡り、再び車で移動します。目的地はここから15分くらいで着く達谷窟(たっこくがいわや)です。ここは芭蕉は寄っていませんが、蝦夷の王の阿弖流為(アテルイ)、悪路王とも言われた人物の伝説が残るところです。この地方の豪族がモデルとなったと言われていますが、平安時代初期、789年より桓武天皇が東北の蝦夷討伐のために大群を進めたのですが、岩手の胆沢で蝦夷を組織して徹底抗戦した阿弖流為に政府軍は大敗北してしまうのです。
797年に征夷大将軍として任命された坂上田村麻呂は、801年の第三次制圧の時に胆沢を平定し、阿弖流為を捕虜として京都に連れ帰りました。坂上田村麻呂の本心は阿弖流為を朝廷のために東北で働かせようと助命を嘆願しましたが、公卿達の反対に願いかなわず、阿弖流為は河内で処刑されてしまいました。

  ●無念にも 蝦夷の王の アテルイの 名を留め置く 達谷がいわや

 また一説には、坂上田村麻呂が達谷窟において阿弖流為の首を刎ねて帰路の途中、茨城県東茨城郡桂村高久にある鹿嶋神社に首を納めたと言われています。
納められた生首は、その後形こそ置き換えられはしたものの、累々と村に引き継がれて来たのですが、保存が難しくなってきたので、桂村の鹿嶋神社にはレプリカを安置して、現物は茨城県立歴史館に保管されたということです。一般公開は勿論されていませんが1999年の夏に桂村高久の鹿嶋神社の氏子総代の加藤さんに特別の計らいをいただき、県立歴史館に預けられ、すでに水戸藩主徳川光圀の時代に二回目の修理をした記録が残っている本物の恨みのこもった、さらし首の頭形を見せていただくことになりました。 その頭形は歴史館の二階の一室に置かれていて、職員の方もあまりの生々しい迫力に、いつまでも残像が残るため幾人も見ていないということです。
 いよいよ約束の日になり、落ち着かない気持ちで東京を8時頃出発し、2時間30分ほどで対面することになったのです。桐箱に収められていて、箱の上部を持ち上げると、現れた頭形は赤い漆の台座に置かれ、武将の生首とはほど遠く、髪はザンバラで両眼はカッと見開き、歯はむき出しで今にも高笑いが聞こえてきそうです。
人の手で作られたものと解っているのですが、使用している髪は人毛で、顔の皮膚もいかにも人のものらしく、虫食いで削ぎ落ちているので、かえって生首そのものに見えまるのです。そのうえトロリとした時間の中を漂っている臭いもします。以前は横にすると両眼を閉じ、起こすとカッと見開いたそうです。
この機会を頂いたのは加藤さんや歴史館の職員のご強力があったればこそ、と感謝なのですが、お礼を申し上げて1時間ほどの対面を済ませ、県立歴史館の外に出て青い空を見上げたときに、ホットした気分でした。
 


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