So-net無料ブログ作成

和歌で尋ねる『奥の細道』今町(直江津)

 芭蕉と曽良が出雲崎から九里先の柏崎をめざして歩いた日は雨でした。柏崎に着いて草鞋をとくはずの天屋弥惣兵衛の宿で、非常に不快な断られ方をされ、立腹して外に出たのです。非礼に気付き後から芭蕉達を追いかけて来たのですが、雨の中それを振り切って次の鉢崎(米山町)まで四里を歩いたのです。これは『奥の細道』のなかで一日50キロ弱は一番長く歩いたことになります。
 不幸はそれだけではありません。翌日、今町(直江津)にやってきた芭蕉は琴平神社の近くにある徳信寺を予定していたのですが、またも忌中なのでと見下され体よく断られたのです。この屈辱的な断りを受け町を出ようとしたのですが、これを見ていた檀家の石井善次郎が、宿を紹介するからと再三引き留めてくれたのです。昨日といい今日といい二度にわたる屈辱に怒りは収まらず振り切ろうとしたのですが、そこに雨が降り出してきたので話し合いの結果、古川市左衛門の家に草鞋をぬぐことに決めたのです。やっと俳聖芭蕉と気が付いて翌日句会をもったのですが、今町の人々と一度こじれた心の陰影は修復できません。そこには出羽路とは違う越後路の不幸がある気がします。芭蕉は今町に二泊、戦国武将の上杉謙信の春日山城跡がある高田に三泊して再び北陸道に戻り五智國分寺と居多(こた)神社に参詣しています。

   ●今町の 夜空に流る 天の河 安寿の思い 佐渡にかかりぬ

「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句は、今町でも高田でも発表していません。最近では芭蕉が高田の次に泊まった能生(のう)の権現山あたりではないかといわれていますが、高田以降の越後路でいいと思うのです。もともとこの句は虚構性の強い句ですから。
 元禄二年(1689)三月、46才の芭蕉がおくの細道に旅たつころ、江戸では説教節が流行っていました。今町(直江津)は「さんせう太夫」の安寿と厨子王の悲話の舞台として知られていたところです。
 奥州の太守であった岩城判官正氏はときの帝の勘気にふれ、筑紫の安楽寺に流されてしまいます。子供の安寿と厨子王は父に会うために母や乳母とともに福島の椿山を出でて、京へ向かいます。越後の今町(直江津)に来たときに、人買の山岡太夫にだまされて母は佐渡へ、安寿と厨子王は丹後由良の山椒太夫に売られて離ればなれになってしまいます。母は佐渡で悲嘆のうちに両眼を泣きつぶし、ムシロに座り「厨子王恋しや、ほうやれ。安寿恋しや、ほうやれ、うばたけ恋しや、ほうやれ」と歌って鳥追いをしているのです。一方の由良では安寿が弟の厨子王をやっとの思いで逃がすのですが、自分は池に身を投げて死んでしまいます。弟は苦難の日々の後、金焼き地蔵の導きで立身出世をして丹後守に任ぜられ山椒太夫を討ち取って、佐渡の盲目の母と再会します。守り地蔵をとりだして母の両眼に当てると見えるようになる説教話しです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行・地域(旧テーマ)

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。