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和歌で尋ねる『奥の細道』金澤

市振を出るとすぐ越中に入ります。芭蕉は黒部川を渡りこの日も40キロ弱を歩き滑川に泊まっています。富山県は万葉の歌人、大伴家持が5年に及ぶ越中国守在任中に200以上の和歌を作っていますので、芭蕉の影は薄く見えます。
 家持は聖武天皇から桓武天皇までの6代の天皇に仕えた政治家で万葉集20巻、4500首におよぶ大規模な和歌撰集の大半に目を通して最終的なまとめをした人物です。
    ●春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
    ●我がやどの いささ村たけ 吹く風の 音のかそけき この夕かも
    ● うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 一人しおもへば
小矢部川の上流に二上山があります。この山は記紀伝承上の人物、景行天皇から仁徳天皇まで五朝にわたり250年近く仕えたとされる竹内宿禰の遺跡があると聞いたので車で上ってみたのです。頂上近くの駐車場に大伴家持の銅像があって、そこから歩いて頂上に登ったのですが、大きな石の祠がひとつ建っていて、周りを調べましたがそれらしき記録はまったく発見出来ませんでしたが、越中は神功皇后と竹内宿禰の伝説の多いところです。
 芭蕉は小矢部市の石動(いするぎ)を経て埴生の八幡宮に寄っています。この埴生
八幡は木曾義仲が倶利伽羅峠で平氏と戦うときに本陣をおいて先勝祈願をしたところです。平維盛・道盛を中心に十万の大軍を動員して倶利伽羅峠に本陣を構え、義仲軍を迎え打つのです。峠の下に陣を構えた義仲は奇襲作戦として牛の角にタイマツを結びつけて夜襲をかけたので、平氏の大軍はみな谷底に転げ落ち大勝利に結びついたのです。「源平盛衰記」似って、峠の合戦絵看板にその模様が描かれています。
 義仲はその勢いで比叡山との提携を実現し、都落ちした平氏に代わり入京します。しかし後白河法皇との折り合いが悪く、その上大飢饉後の大軍の駐留で兵糧徴集では京の人心を失いました。義仲は朝日将軍とまでいわれましたが源範頼・義経軍に敗れ、近江の粟津で討死し、30才の短い命を終えたのです。倶利伽藍峠の古戦場には現在、源平戦士の供養塔が建てられています。

    ●倶利伽藍の 火牛の夜襲 義仲は 平氏を敗り 天下夢見し

峠を降り掛けると左手に弘法大師も参詣したと言い伝えのある倶利伽藍不動寺の本堂が見えます。峠を降りて国道8号線を走り1時間ほどで加賀の金澤に入ります。
金澤は京都と拮抗して歴史や食、茶の文化が発達した街です。食在の新鮮さと種類においては負けていません。金澤にやって来た芭蕉が、一番に宿の主人に小杉一笑を呼んでくれと頼むのですが、一笑は前年に他界していたのです。この時の芭蕉の心の衝撃はいかばかりか、悲しみても余りあるものがあります。「塚も動け わが泣く声は 秋の風」この句は全てを語りつくすのでしょう。


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