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和歌で尋ねる『奥の細道』小松

白山神社から小松まで20キロ弱です。小松は斎藤実盛の遺品の甲冑や木曾義仲の願書が奉納されている多太神社を参詣します。
 実盛は斎藤別当実盛のことです。武蔵の国の荘園の管理者になったのですが、保元・平治の乱では頼朝や義経の父の義朝に従って活躍しましたが、義朝の死後は平宗盛に仕えました。
 倶利伽藍峠の戦いで敗れた平氏軍は小松空港の近くにある篠原で劣勢をくい止めようとしました。そのとき実盛は味方の軍勢の落ち行くのを見送り、ただ一騎取って返し、御大将が着るような赤地に錦の直垂をつけて追い来る義仲軍に立ちはだかったのです。このときすでに実盛は死を覚悟していたのでしょう。その当時の実盛の歳は73才、白髪を染めて奮戦したのですが、武運つたなく力つきて、手塚光盛に討たれてしまいます。
 白髪染めの首を検分したのは、かつての同輩・樋口次郎兼光でした。彼はそれを知って「あなむざんやな」と落涙したといいます。義仲にとっても実盛の首を見るのは、感慨無量の思いがあります。というのは実盛は義仲にとって命の恩人だったのです。
義仲2才のとき、父・義賢(義朝の弟)が甥の義平に討たれるのですが、義平は後難を恐れて義仲を殺そうとしますが、畠山重能がこれを憐れみ、斎藤別当実盛に頼んで匿ってもらいました。実盛は2才の義仲を木曾の中原兼遠に預けたのです。
 実盛の温情により義仲は生き長らえたのですが、運命の皮肉というのでしょうか、幼きときの恩人と敵味方に分かれ、これを討つことになってしまいました。義仲は実盛を手厚く弔い、甲冑を多大八幡宮に納めました。
 武人としての斎藤別当実盛の「死に場をわきまえる」ということはみごとです。

    ●実盛の 赤き錦の 直垂は 歴史を刻み 名をも残しぬ

 芭蕉は金澤から福井の県境まで立花北枝を伴って旅をしていますが、その途中、山中温泉で曽良と別れて別々の旅になります。「曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、 行き行きてたふれ伏すとも萩の原 曽良
と書置きたり。
 また『奥の細道』では多太神社から那谷寺に寄って山中温泉に向かったと書かれていますが、実際には多太神社から山中温泉に直行し、八泊した後に芭蕉は北枝を伴って再び小松へ向かう途中、那谷寺を参詣しています。
 那谷寺は717年に泰澄(たいちょう)が越前の越知山から白山に入り、白山修験道の基を開きます。その後この地に分け入り、千手観音を岩窟に安置して白山開拓の鎮守神としたと伝えられ、境内には、若宮白山神社が祀られ、那谷寺と霊峰白山は深い関係を持っているのが分かります。

 


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