So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

和歌で尋ねる『奥の細道』山中・福井・敦賀・大垣

花山天皇は藤原兼家の陰謀で出家しますが、法皇となってから、和歌・会画・建築・工芸に才能を発揮します。また西国三十三ヶ所の観世音菩薩の巡礼の途中、那谷寺を訪れた花山院は西国三十三ヶ所、第一番の那智山青岸渡寺と第三十三番谷汲山華厳寺からそれぞれ一字を採って「那谷寺」(なた)と命名したのです。
 山中温泉は八世紀の初め、北陸行脚の行基によって発見された霊泉です。有馬温泉・草津温泉とともに日本三名湯としても知られています。山中では昼ごろ、芭蕉と北枝は小松へ出発して、一人残った曽良も即刻立って金澤藩の支藩、大聖寺に向かいます。
曽良はその日、大聖寺藩の城下町にある金昌寺に泊まっています。芭蕉達も二日後に同じ所に泊まっています。
 芭蕉達は金昌寺を出発し、九頭龍川を渡り松岡の永平寺の末寺、天竜寺に泊まってここで北枝と別れます。この寺の参道の右手に1844年に地元の俳人が建てた芭蕉塚が少し朽ちていますが残っています。境内には芭蕉と北枝の別れの像もあります。
. しかし芭蕉と北枝と別れた場所はいろいろ定説があって、松岡よりもずっと手前の細呂木と金津の間の茶屋というのが事実らしいのです。ということになりますと、芭蕉は奥の細道の中で、初めて福井までの50キロを一人で歩いたことになります。松岡から道元禅師の御寺、永平寺は車で15分くらいで着きます。

    ●深山に 雪は積もりし 永平寺 黒袈裟かけに 素足の修行

福井では神戸等裁の所に二泊して、等裁を伴って今庄で泊まり敦賀に夕刻入り、気比神宮に夜参しています。翌朝敦賀の港から敦賀半島の先端の色の浜に遊んでいます。ここは500年前、西行が「汐そむる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらむ と詠んだところで、西行を慕う芭蕉は色の浜を尋ねて西行供養をしたかったのでしょう。
 敦賀から大垣までは迎えに来た八十村路通と一緒です。伊吹山を左に仰ぎながら浅井・堀部・関ヶ原・青墓・赤坂・結びの地、大垣と進みます。
 青墓は以前、小栗判官の取材で作家のM先生と来ましたので、とても懐かしく思いでの地でもあります。そのM先生が亡くなられたとき、各新聞社がいろいろ追悼文を載せましたが、ある一人の作家が先生の文学の原点は「女」であると論をたてたのがとても印象に残っています。

 大垣は彼の親しい人達が多く住んでいて、彼らに歓待され、半月も旅の慰労を受けて一応、西行五百回忌に際しての追善供養の旅の区切りがついてホッとしたと思います。
 長旅の疲れをすっかり癒した芭蕉は、船町湊から再会した曽良たちと共に船で伊勢長島に向かいます。そこは曽良の叔父が住職をしている大智院があり、三泊した芭蕉は桑名を経て、式年遷宮の行われている伊勢神宮を参拝して、故郷の伊賀上野に戻ります。       


和歌で尋ねる『奥の細道』小松

白山神社から小松まで20キロ弱です。小松は斎藤実盛の遺品の甲冑や木曾義仲の願書が奉納されている多太神社を参詣します。
 実盛は斎藤別当実盛のことです。武蔵の国の荘園の管理者になったのですが、保元・平治の乱では頼朝や義経の父の義朝に従って活躍しましたが、義朝の死後は平宗盛に仕えました。
 倶利伽藍峠の戦いで敗れた平氏軍は小松空港の近くにある篠原で劣勢をくい止めようとしました。そのとき実盛は味方の軍勢の落ち行くのを見送り、ただ一騎取って返し、御大将が着るような赤地に錦の直垂をつけて追い来る義仲軍に立ちはだかったのです。このときすでに実盛は死を覚悟していたのでしょう。その当時の実盛の歳は73才、白髪を染めて奮戦したのですが、武運つたなく力つきて、手塚光盛に討たれてしまいます。
 白髪染めの首を検分したのは、かつての同輩・樋口次郎兼光でした。彼はそれを知って「あなむざんやな」と落涙したといいます。義仲にとっても実盛の首を見るのは、感慨無量の思いがあります。というのは実盛は義仲にとって命の恩人だったのです。
義仲2才のとき、父・義賢(義朝の弟)が甥の義平に討たれるのですが、義平は後難を恐れて義仲を殺そうとしますが、畠山重能がこれを憐れみ、斎藤別当実盛に頼んで匿ってもらいました。実盛は2才の義仲を木曾の中原兼遠に預けたのです。
 実盛の温情により義仲は生き長らえたのですが、運命の皮肉というのでしょうか、幼きときの恩人と敵味方に分かれ、これを討つことになってしまいました。義仲は実盛を手厚く弔い、甲冑を多大八幡宮に納めました。
 武人としての斎藤別当実盛の「死に場をわきまえる」ということはみごとです。

    ●実盛の 赤き錦の 直垂は 歴史を刻み 名をも残しぬ

 芭蕉は金澤から福井の県境まで立花北枝を伴って旅をしていますが、その途中、山中温泉で曽良と別れて別々の旅になります。「曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、 行き行きてたふれ伏すとも萩の原 曽良
と書置きたり。
 また『奥の細道』では多太神社から那谷寺に寄って山中温泉に向かったと書かれていますが、実際には多太神社から山中温泉に直行し、八泊した後に芭蕉は北枝を伴って再び小松へ向かう途中、那谷寺を参詣しています。
 那谷寺は717年に泰澄(たいちょう)が越前の越知山から白山に入り、白山修験道の基を開きます。その後この地に分け入り、千手観音を岩窟に安置して白山開拓の鎮守神としたと伝えられ、境内には、若宮白山神社が祀られ、那谷寺と霊峰白山は深い関係を持っているのが分かります。

 


和歌で尋ねる『奥の細道』加賀白山

 金澤に今しばらくとどまります。
一笑は小杉氏。茶屋商人で早くから俳句をたしなみ、金澤の蕉門では中心的な人物です。一笑の墓は犀川大橋を渡り直進して野町2丁目の信号の左手の願念寺にあります。門前に向かって左隅に「つかもうごけ」の句碑が残されています。
 金澤駅から車で10分ほどの所に近江町市場が有ります。ここは江戸の昔より金澤の台所として栄えた市場です。市場は夜が早く店じまいをしますが、近江町食堂だけは10時ぐらいまで開いているので必ず寄る店です。
金澤でなければ食べられない新鮮な魚介類やみそ汁や漬け物等、旨いものを作ってくれます。
 また金澤は従兄弟が金沢大学に勤めているので、夜待ち合わせをして、この食堂でよく飲むのですが、たまには東の茶屋街に繰り出し、たわいのない話しで酒もすすみ懐石料理を楽しむこともあります。
 
    ●淺野川 月夜にゆれる 街の灯に 色香ただよう 東の廓

 芭蕉は寄っていませんが、翌日、石川郡鶴来町にある加賀一宮の白山神社を参詣します。金澤から西に車で8号線を走りの乾町の信号を左に折れ10キロ弱で白山の麓の白山神社に着きます。標高2702メートルの白山は日本三名山(富士・立山)のひとつで1300年の歴史がある信仰の山です。ご祭神は白山姫ですが、菊理媛(くくりひめ)のことです。菊理媛は天照大神の産湯をとった女神で、赤子の泣き声から言葉を聞き取った神様です。そのとき桑で作った弓をブンブン鳴らして悪魔祓いをして寄りつかないようにしたと言われています。

    ●菊理媛 産湯つかわし 抱き寄せて 初の一声 日の本明かし

 白山神社の下に日本酒の菊姫合資会社があります。その近くの古い町並みに酒屋さんがあって、そこの女将曰く、菊姫の醸造用のアルコールが入った日本酒を一度燗にしてアルコールを飛ばして飲むとこれが旨いんだと教えてくれました。
 そう言えば東京でもシャンペンを冷蔵庫で冷やすんじゃなく氷水で優しく冷やしてやるとシャンペンの香りが、いっそう華やかになると教えてくれたのもやはり酒屋の女将でした。こういうことはとても大切なことです。


和歌で尋ねる『奥の細道』金澤

市振を出るとすぐ越中に入ります。芭蕉は黒部川を渡りこの日も40キロ弱を歩き滑川に泊まっています。富山県は万葉の歌人、大伴家持が5年に及ぶ越中国守在任中に200以上の和歌を作っていますので、芭蕉の影は薄く見えます。
 家持は聖武天皇から桓武天皇までの6代の天皇に仕えた政治家で万葉集20巻、4500首におよぶ大規模な和歌撰集の大半に目を通して最終的なまとめをした人物です。
    ●春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
    ●我がやどの いささ村たけ 吹く風の 音のかそけき この夕かも
    ● うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 一人しおもへば
小矢部川の上流に二上山があります。この山は記紀伝承上の人物、景行天皇から仁徳天皇まで五朝にわたり250年近く仕えたとされる竹内宿禰の遺跡があると聞いたので車で上ってみたのです。頂上近くの駐車場に大伴家持の銅像があって、そこから歩いて頂上に登ったのですが、大きな石の祠がひとつ建っていて、周りを調べましたがそれらしき記録はまったく発見出来ませんでしたが、越中は神功皇后と竹内宿禰の伝説の多いところです。
 芭蕉は小矢部市の石動(いするぎ)を経て埴生の八幡宮に寄っています。この埴生
八幡は木曾義仲が倶利伽羅峠で平氏と戦うときに本陣をおいて先勝祈願をしたところです。平維盛・道盛を中心に十万の大軍を動員して倶利伽羅峠に本陣を構え、義仲軍を迎え打つのです。峠の下に陣を構えた義仲は奇襲作戦として牛の角にタイマツを結びつけて夜襲をかけたので、平氏の大軍はみな谷底に転げ落ち大勝利に結びついたのです。「源平盛衰記」似って、峠の合戦絵看板にその模様が描かれています。
 義仲はその勢いで比叡山との提携を実現し、都落ちした平氏に代わり入京します。しかし後白河法皇との折り合いが悪く、その上大飢饉後の大軍の駐留で兵糧徴集では京の人心を失いました。義仲は朝日将軍とまでいわれましたが源範頼・義経軍に敗れ、近江の粟津で討死し、30才の短い命を終えたのです。倶利伽藍峠の古戦場には現在、源平戦士の供養塔が建てられています。

    ●倶利伽藍の 火牛の夜襲 義仲は 平氏を敗り 天下夢見し

峠を降り掛けると左手に弘法大師も参詣したと言い伝えのある倶利伽藍不動寺の本堂が見えます。峠を降りて国道8号線を走り1時間ほどで加賀の金澤に入ります。
金澤は京都と拮抗して歴史や食、茶の文化が発達した街です。食在の新鮮さと種類においては負けていません。金澤にやって来た芭蕉が、一番に宿の主人に小杉一笑を呼んでくれと頼むのですが、一笑は前年に他界していたのです。この時の芭蕉の心の衝撃はいかばかりか、悲しみても余りあるものがあります。「塚も動け わが泣く声は 秋の風」この句は全てを語りつくすのでしょう。


和歌で尋ねる『奥の細道』市振

高田から再び直江津方面に向かい、国道8号の交差点を左に曲がり、五智國分寺へ行きます。五智國分寺は近年火事で三重塔の一部を焼き山門を残して全て焼失しました。
居多神社を参詣して日本海に沿って西下し能生の白山神社へ向かいます。
 白山神社のご祭神は白山姫ですが、他に二柱の大国主命と妃の奴奈川姫命を祀ります。大国主命が出雲の国譲りをして百八十人の神々を率いて青森の津軽アソ辺に国を遷されたときに越に寄り、その時に奴奈川姫を妃としたのでしょうか。
 神社と対面して丘の上に曲がり屋が見えましたので行ってみると町の歴史民俗資料館になっています。岩手県の遠野の「曲がり屋」が名を知られていますが、馬と一緒に暮らす曲がり屋は民俗学的にいうと能生が南限です。
 能生から6キロほどで早川を渡りますが、芭蕉はこの急流に足を取られつまずいて転んでしまいました。びしょぬれになった衣を河原の石の上に広げて乾かしたのです。 
 しばらく走ると長野県の白馬村の方から糸魚川街道に沿って流れる姫川を渡ります。この姫川の姫と奴奈川姫と関係が有りそうです。古代この近辺から翡翠が採取されたので奴奈川姫は原石の象徴だったのかも知れません。出雲の大国主命が妃とした意味が分かりますし、出雲崎という地名もきっと出雲と交易があったからでしょう。
    ●國ゆずり 事代主の えびす顔 大黒様に お諫め申す
 姫川(糸魚川)をわたるとすぐに青海にはいります。ここから市振までの十数キロ断崖の切り立つ海岸線を越後路最大の難所、親不知・子不知といいます。
 親不知観光ホテルの脇から海岸に降りる細い道があって、最初は葛折で降りて行けるので少し海が見えるところまで降りてみようかと軽い気持ちで降りたのですが、そのうち細道が一直線に落ちるように海岸に突き進むので、途中で引き返そうにも躰が言うことをきかず、最後は石ころだらけの海岸に飛び降りたのです。海岸は大きな石ころだらけで砂浜は見あたりません。冬とは違い夏の日本海は穏やかです。降りるのに所要した時間は20分、戻りは1時間ほどかかりました。ということで海辺に降りるのは健脚な方だけにお勧めします。
 市振は今までとは打って変わって小さくて穏やかな宿場です。芭蕉は親不知・子不知の難所を越えて夕方市振に着いています。ここで遊女と一つ家に泊まるわけですが、この話しはおそらく創作でしょう。元禄2年の年は伊勢神宮の式年遷宮の年に当たっているので、遊女達の「抜け参り」の話しを創作したのだと思います。

     ●市振の 泊まりし宿の 枕まく 旅寝の床に 潮鳴り聞こゆ      

 『奥の細道』では翌朝、遊女達から伊勢参りへの道中の道連れになってほしいと頼まれますが、われわれは途中、いろいろ寄るところがあるので、他の巡礼者に付いていったほうがいい。神様のご加護があるので無事に伊勢に行けますよと言って断ります。創作とはいへ、なんと無常な男なんでしょう。


和歌で尋ねる『奥の細道』今町(直江津)

 芭蕉と曽良が出雲崎から九里先の柏崎をめざして歩いた日は雨でした。柏崎に着いて草鞋をとくはずの天屋弥惣兵衛の宿で、非常に不快な断られ方をされ、立腹して外に出たのです。非礼に気付き後から芭蕉達を追いかけて来たのですが、雨の中それを振り切って次の鉢崎(米山町)まで四里を歩いたのです。これは『奥の細道』のなかで一日50キロ弱は一番長く歩いたことになります。
 不幸はそれだけではありません。翌日、今町(直江津)にやってきた芭蕉は琴平神社の近くにある徳信寺を予定していたのですが、またも忌中なのでと見下され体よく断られたのです。この屈辱的な断りを受け町を出ようとしたのですが、これを見ていた檀家の石井善次郎が、宿を紹介するからと再三引き留めてくれたのです。昨日といい今日といい二度にわたる屈辱に怒りは収まらず振り切ろうとしたのですが、そこに雨が降り出してきたので話し合いの結果、古川市左衛門の家に草鞋をぬぐことに決めたのです。やっと俳聖芭蕉と気が付いて翌日句会をもったのですが、今町の人々と一度こじれた心の陰影は修復できません。そこには出羽路とは違う越後路の不幸がある気がします。芭蕉は今町に二泊、戦国武将の上杉謙信の春日山城跡がある高田に三泊して再び北陸道に戻り五智國分寺と居多(こた)神社に参詣しています。

   ●今町の 夜空に流る 天の河 安寿の思い 佐渡にかかりぬ

「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句は、今町でも高田でも発表していません。最近では芭蕉が高田の次に泊まった能生(のう)の権現山あたりではないかといわれていますが、高田以降の越後路でいいと思うのです。もともとこの句は虚構性の強い句ですから。
 元禄二年(1689)三月、46才の芭蕉がおくの細道に旅たつころ、江戸では説教節が流行っていました。今町(直江津)は「さんせう太夫」の安寿と厨子王の悲話の舞台として知られていたところです。
 奥州の太守であった岩城判官正氏はときの帝の勘気にふれ、筑紫の安楽寺に流されてしまいます。子供の安寿と厨子王は父に会うために母や乳母とともに福島の椿山を出でて、京へ向かいます。越後の今町(直江津)に来たときに、人買の山岡太夫にだまされて母は佐渡へ、安寿と厨子王は丹後由良の山椒太夫に売られて離ればなれになってしまいます。母は佐渡で悲嘆のうちに両眼を泣きつぶし、ムシロに座り「厨子王恋しや、ほうやれ。安寿恋しや、ほうやれ、うばたけ恋しや、ほうやれ」と歌って鳥追いをしているのです。一方の由良では安寿が弟の厨子王をやっとの思いで逃がすのですが、自分は池に身を投げて死んでしまいます。弟は苦難の日々の後、金焼き地蔵の導きで立身出世をして丹後守に任ぜられ山椒太夫を討ち取って、佐渡の盲目の母と再会します。守り地蔵をとりだして母の両眼に当てると見えるようになる説教話しです。


和歌で尋ねる『奥の細道』新潟

岩船神社の境内から岩船港が見下ろせます。この神社は古く航海の安全や漁業の神様として延喜式の磐船郡八座の筆頭に記されています。次の目的地である乙宝寺まで10キロ30分ほど走ります。
 今昔物語は12世紀前半に成立した1千有余の説話で描いた人間悲喜劇全集ですが、その中に出てくる乙寺(きのとでら)は名刹、乙宝寺のことなんです。山門をくぐると右手に三重塔があって、その佇まいから寺の格式と歴史の古さを感じさせます。
 芭蕉はこの先8キロ程あるいて築地(ついじ)に泊まっていますが、雨も降ってきましたので新潟の万代橋の近くにあるホテルに直行します。
 越後路の『奥の細道』には「病おこりて事をしるさず」と、四行しか記されていません。
   酒田の余波日を重ねて、北陸道の雲に望。遙々のおもい胸を
   いたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関こゆれ
   ば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に至る。此
   間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
話しは一気に市振に行くわけですが、曽良の日記をみると越後路は二人にとって差別を受け心おだやかでない旅を経験したようです。紹介状を持っていたにもかかわらず宿を断られ、次の宿場まで歩き通したのです。越後は情報不足もあり二人を歓迎した人は少なかったようです。しかし今町をすぎ逆境の中で雄大なスケールの大きい「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句を残しているのはさすが俳聖の芭蕉公とお見受けしました。
 越後路の四行の行間を歩くことにして新潟を出発、越後一宮の弥彦神社に向かいます。神社の裏手からロープウェーに乗ると一気に弥彦山の頂上に行けます。天気がよければ東は三条市から日本海の佐渡島まで見えるはずですが、この日は小雨模様で肌寒い一日でした。
 弥彦山を越えて寺泊に降りる途中に弘智大師(日本最古の即身仏のミイラ)を祀ってある西生寺があります。ミイラの本場は山形県で見てきましたので通過しようと思ったのですが、作家のS先生は事前に調べてあるらしく、「この近くに芭蕉が寄った西生寺があるわよね」とおっしゃったので「ハイ、取材の予定に入っていますから」と明るい声で答えましたが、
結果、必然的に境内に入ると一定の距離を保ちつつも行動は微妙に別々ということになりました。
   ●西生寺 最古のミイラ 守りおく 姿とどめて ながき人生
 寺泊に入り軽い昼食をとりました。ここは九世紀に旅の尼僧のために無料の宿泊施設をひらいたことから「尼寺の泊まり」と呼ばれ、後に寺泊となったようです。芭蕉はここを素通りして出雲崎に向かっています。


和歌で尋ねる『奥の細道』村上

 象潟をあとに鳥海山を左に見ながら国道7号線を南下します。大山に入る途中、14世紀に現在地に移った曹洞宗総持寺の直末の善宝寺に寄ります。名刹にふさわしく重厚な山門をくぐると左手に五重塔がたち右手には羅漢堂があって、正面の階段をのぼると本堂の前に出ます。ここからの眺めはすばらしく鶴岡市街の先に月山を遠望することができるのです。旅の途中で月山が見えるときまって懐かしさを覚えるのです。
 その善宝寺から5分ほどで大山の古社、椙尾(すぎお)神社があります。大山は千年の歴史を誇る酒造業の街ですが、現在は酒造元は数件までに激減しています。
この先は由良坂峠を越えて由良の海岸に出て、海岸から15分ほど山間に入った温海温泉に泊まります。ここの朝市は歴史も古く名が知られているので朝一番に出かけましたが、土産店が立ち並ぶ雰囲気で昔ながらの路上の朝市とはかけ離れたものでがっかりしました。
 宿を出ると温泉街の反対側にある熊野神社に旅のお礼を拝して奥羽三古関の一つ鼠ヶ関(念珠)を通過したのは朝の10時くらいです。国道7号をさらに南下すると朝日トンネルが見えてきますが、トンネルの入り口の手前を左にクイックターンする形で山に分け入ります。南下する葡萄峠のルートは道幅も狭く、湧き水が溜まっている所は、車を降りて水の深さを確かめ、筋道を付けて水を山下に逃がさなければ越えられない所もありますので、むしろ朝日トンネルを通過して、村上の方から葡萄峠を目指し、矢向明神の所から折り返し来た道を戻る方が安全かも知れません。
 その矢向明神は、奥羽の帰り道、源義家が余った矢で社殿の屋根を葺いたと言う伝説があり別名矢葺明神とも呼ばれています。陽は傾き掛けているものの、まだ高いのですが明神岩が立ちはだかる崖下の小さな祠は薄暗く、どうにも薄気味悪いので早々に立ち去ることにします。
 こうゆう緊張が一番疲れるので村上の街の灯りを目にしたときはホッとします。

   ●村上の 夜の静寂 徘徊し 〆張鶴の 杯を重ねし

 村上は三面(みおもて)川から鮭の遡上することで昔から名を知られています。魚が泳いでいる資料館がありここを訪れると、村上の歴史や鮭の遡上する生活がよくわかります。芭蕉は村上を出発する朝、寺町のめずらしい白壁土蔵造りの浄念寺に寄っています。村上市街を抜けて三面川の川口、瀬波の港に寄って、芭蕉も見たという対岸の多伎神社を眺めるために浜に降りました。確かに対岸に小さく社は見えはしましたが、奥羽のスケール大きい風景を見てきた芭蕉にとっては、きっと物足りなかったはずです。作家のS先生は砂浜の小さな貝殻を拾うことに夢中でしばらく遊んでいました。近年出来た瀬波温泉を抜けて、古代の豪族物部氏の祖先にあたるご祭神ニギハヤヒを祀る石船神社に向かうことにします。


和歌で尋ねる『奥の細道』象潟

鶴岡は旧西田川郡役所(国重文)や、致道博物館があって、ちょっと明治の香りがします。

   ●鶴岡の 出羽を拝する 旅の宿 闇を切りゆく 夜汽車の汽笛

芭蕉は山王社近くの長山五郎右衛門(重行)のところに2泊していますが、今は一坪ほどの囲いの中に「芭蕉滞留の地長山重行宅跡」が残されているだけで昔を偲ばせるものはなく、ただ「長山小路」の名前が残されています。
 芭蕉は内川に架かる大泉橋のところから船で酒田に向かっています。
酒田までは20キロなので国道7号線を1時間ぐらい走れば着きます。
 まず観天望気をした日和山公園に行ってみました。ここ酒田は日本で一番古い木像六角灯台があって、河村瑞賢が開いた西回り航路と天領の御城米を集めた御米置き場に始まります。井原西鶴の『日本永代蔵』に酒田の大問屋として出てくる鐙屋邸(国重文)や豪商本間家本邸、本間美術館を見たりしてこの日は酒田に泊まります。

   ●九十九の 象潟島の 蚶萬寺 舟つなぎ石 陸にあがりし

 酒田を後に鳥海山を右手に見ながら象潟まで35キロを走ります。
芭蕉は「象潟や 雨に西施が 合歓の花」と西施のうれいをたたえました。
西施は楊貴妃と並んで絶世の美女の代名詞です。彼女は春秋時代(紀元前770〜478)に「呉越同舟」「臥薪嘗胆」などのことわざで知られている越が呉の国に敗れ臣従しなければならなくなったとき、呉の王を惑わせて国を傾けさせようと越から送り出された悲運の女性です。西施は後に呉の国を脱出し元の恋人と西湖におもむいて二人で入水したと言われています。
 芭蕉は太平洋側の松島を西施が「笑うがごとく」と述べたのに対して日本海側の象潟を西施の「憾むがごとし」と風景を対比させています。
 雨の象潟は彼女の愁いを秘めた趣がありますが、芭蕉の来遊から150年後に突然の大地震によって2、4メートルも海底から隆起したので、船を浮かべて島巡りをした当時の面影はありません。
 能因が三年幽居した能因島は田んぼの中にこんもりと盛り上がった塚になっています。
 新潟、富山、福井は越後、越中、越前と古く大和時代より越国と呼ばれてきたのは、きっと西施の住んでいた越の人達が昔、日本に渡ってきたのではないでしょうか。


和歌で尋ねる『奥の細道』出羽三山

清川は『義経記』に羽黒権現の御手洗(みたらし)なり、とありますから、羽黒山の参詣のとき手を洗い身を清める禊ぎの場所だったのでしょう。ここから羽黒の門前町の手向村まで車で30分くらいでつきます。元禄の芭蕉が来たころは宿坊が三百以上もあったのですが、現在は五十軒ぐらいです。着いた日に芭蕉は図司左吉に南谷の別院に案内されていますが、ここからが大変な道程なんです。まず随神門をくぐり急な階段を200段くらい下りて祓川に掛かる朱色の神橋を渡りますと、右手に須賀の滝が白糸になって落ちているのを目にします。そして少し進むと杉の巨木の左手奥に平将門によって創建されたという素木造りの五重塔がすっくと建っています。ここからいよいよ登りになるのですが、これが半端じゃないのです。杉木立に囲まれた階段は2400段以上有るのですから、いくら登っても疲れるだけでなかなか先が見えないのです。一の坂、二の坂と上り、三の坂の手前を斜め右に折れて、500メートルほど進むとやっと南谷の芭蕉が泊まった別院跡に着きます。

● 南谷 三百年の 歳月に 庭草しげり 礎石のこしぬ

別院跡は行き止まりなのでまた元に戻り、急階段を登り頂上を目指します。羽黒の山頂に着くと左手に茅葺きの三神合祭殿(羽黒山・月山・湯殿山)の羽黒神社が鏡池を前にして大きな姿を現します。ここは修験道羽黒派の本山で、32代崇峻天皇の皇子、蜂子皇子を開祖としています。境内には皇室陵墓参考地として指定された陵墓が本殿の反対側にあります。開祖蜂子皇子は顔の色は黒く長さは60センチ、鼻の長さ10センチ、めじりはつり上がり、口は耳まで裂けて狼のようだったようです。聖徳太子とは従兄弟の関係でしたが蘇我馬子に父崇峻が殺されたので、太子は修行僧になることを勧め「能除一切苦」という般若心経の句を授けたので皇子は能除大師とも呼ばれています。
 羽黒神社を後に車で小一時間走りますと月山の8合目に着きます。ここはレストハウスがある大きな駐車場になっていて観光バスも上がってきています。眼下に鶴岡の市街がみえますし、晴れていれば佐渡島も見えそうです。私が走り着いたときは空全体が夕焼けに染まり真っ赤でした。このとき初めて赤い夕焼けに酔いました。
 芭蕉は月山頂上から湯殿山に降りて、参拝し再び月山頂上へ登り南谷に戻りましたが、私は8合目から麓の羽黒に下り、回り道をして六十里越街道から再び湯殿山道路を登ります。湯殿山神社の下までは乗用車は入れますが、ここから専用のバスで登ります。
 バスを降りると、そこから徒歩で少し登り、また湯殿に向かって下りることになります。祓いを受けた後、裸足になって湯殿を参拝します。大きな茶色くなった岩の上まで、流れる湯に足を濡らしながらあがれるのです。出羽三山は他言禁制ですから、このへんで留め置きます。
 
 


前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。