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和歌で尋る『奥の細道』大石田

山寺を後に山寺街道から羽州街道に戻り大石田に向かいます。大石田に着く頃は陽もだいぶ山端に近づきましたので宿の心配をしなくてはなりません。ここまで来たら足を伸ばして久しぶりに銀山温泉の湯にとっぷりと浸かろうと思ったのですが、あいにく宿はどこもふさがっていて断られました。予約を入れないのがいけなかったのかとがっかりです。駅の近くの宿を紹介されましたが、旅の途中で泊まる所が決まらないのはなんとも不安で心細い限りです。
 大石田は古い川港で芭蕉が訪れたころは野辺沢銀山が最も栄えていて毎日のように酒田から大量の物資が船で最上川を上下していました。
西光寺の境内には「五月雨を集めて涼し最上川」の句碑が残されています。この句は最上川の対岸の黒滝村にある曹洞宗の名刹、向川寺に参詣した時に得られたらしいのです。
 新庄は最上川を離れ、途中から奥羽本線に沿って走ると1時間ほどでつきます。芭蕉は新庄でも歌仙を巻いて俳諧指導をしています。
 実は山形に入ってから気が付いたのですが、これから月山を中心に尾花沢、大石田、新庄、本合海、出羽、鶴岡、大山、温海、中村と左巡りをすることになるのです。
 この左巡りというのは神代のこと、女神と男神が初めて顔を合わしたとき、天の御柱に向かって女神は右に立ち、男神は左に立ち、女神は左巡りに、男神は右巡りに御柱をまわりました。そして言挙げは女神が先に「ア、いい男ですね」と言い、男神は「ワ、うれし乙女よ」と言いました。しかしこの巡り方は宇宙原理に従えば、巡りも、言挙げも逆と言うことが分かり、改めて女神は右巡り、男神が左巡りをして国をつくりました。
というわけで、なんとなく左巡りは気持ちがいいのです。この御柱にあたる月山を、これから遠く左手にいつも眺めることができます。
 森 敦(もりあつし)の小説『月山』は一人の旅人が七五三掛(しめかけ)村で一冬過ごす秘密めいた物語の舞台、注連寺に「すべての吹きよするところ これ月山なり」の碑が残されています。

   ●月は出で 出羽の三山 照らすとも 月山のみが 白く応えし

 新庄から芭蕉が川下りの船に乗った本合海まで30分位で着きます。ここは最上川が蕩々と流れて大きな岩盤にぶつかり、ちょうど90度に曲がるところで、その壮観さにしばらく佇んで見ていました。川下の古口まで20分程で着いたので草薙まで船で下ることにします。
芭蕉はもう少し下流の清川で下船し、庄内平野を右手にみながら、羽黒山まで徒歩で登ります。


和歌で尋る『奥の細道』立石寺

 尾花沢の養泉寺からは奥羽本線に沿って50キロほど南下して天童市にある人気の観光名所の一つ立石寺に向かいます。観光バスがひっきりなしに出入りするので隙間に駐車して、石段を登り立石寺本堂を参拝します。山門に向かう途中に曽良と芭蕉が岩に腰かけている銅像があって、側の石に「閑かさや 岩にしみ込む 蝉の声」の句碑が刻まれています。また5分ほど歩くと、立石寺の山門に行き当たりますが、ここでも拝観入場料を払い千段以上の階段を登らなければなりません。しかし途中に休憩所の売店があり冷えたビールに熱々のコンニャクがあって極楽です。

● 山寺の 修験のこもる たて岩に 谷風わたり 蝉声きこゆ 

 岩にしみ込む蝉の声の「蝉」の種類について文学者の小宮豊隆のニイニイゼミ説と歌人の斉藤茂吉のアブラゼミ説が論争したことがあります。結局小宮の説に落ち着きましたが、都心ではこのところニイニイゼミの声を聞くことは出来ません。アブラゼミニ始まって昼のミンミンゼミと夕方少しのヒグラシで夏が終わります。ここでは蝉の声を通して文学と風土の関わりあいを体験します。デスクワークではなくフィールドワークといったところです。
 芭蕉はかつて伊賀の上野の藤堂主計良忠に仕えていました。芭蕉より二つ年上だった良忠は北村季吟の門下の俳人で俳号が「蝉吟」(せんぎん)と云います。二人の結びつきは強く、25才の若さであの世に旅たった主君の部屋の前で芭蕉は殉死しようとしたくらいです。
 「しずかさや」の蝉は幼虫の時間が長く、地中で5、6年過ごし、その間4回の脱皮をくりかえして成熟し、地上に出て羽化して成虫となって数週間で死んでいきます。
蝉の声には祖先の霊魂と自分を結ぶ糸の役割があると考えられますから、夏の間だけ啼いて、はかなく死んでしまう短い蝉の命に、主君の良忠が重なったのでしょう。

 初めに話しましたが、『奥の細道』は歌仙を巻き名所旧跡を訪ねる旅ではなく、歴史に登場する聖霊、たとへば日光瀧尾神社の空海大師、黒羽の那須与一、役の小角、芦野の西行、白河関の源頼政、平兼盛、在原業平、源実朝、黒塚の安達ヶ原の鬼婆、飯坂の佐藤継信、忠信、信夫ノ里の源融と虎女、笠島の藤原実方、多賀城の坂上田村麻呂、塩竃の和泉三郎、平泉高館の義経主従、山寺の自覚大師、藤堂主計良忠、出羽三山開祖の蜂子皇子、象潟の西施、能因、富山県滑川の大伴家持、金澤の小杉一笑、那谷寺の花山天皇、山中温泉の行基、小松の斉藤実盛、永平寺の道元禅師、倶利伽藍峠の木曽義仲、等の供養を目的とした旅です。その証拠に芭蕉が訪ねた多くの場所は山岳信仰のメッカ、神社や古刹です。


和歌で訪る『奥の細道』尾花沢

能因、西行、義経の史跡をたどり平泉まで来まできた芭蕉は、ここを北限として南にきびすを返し、岩出山から奥羽山系を越えていよい日本海側に向かいます。
 私も車を反転させて達谷窟を後に岩出山町まで南下し右に折れて最上街道47号線を鳴子に向けて走ります。この鳴子の由来は義経の奥方が出産して赤子が泣いたのが転じて「啼き子」から「鳴子」に、尿前の関もその若君が初めてオシッコをしたところから「尿前」だと伝わります。
 尿前から中山峠を越えて6キロほどで奥の細道の最大の難所といわれる山刀伐峠(なたぎり)を越えて山形県の尾花沢に降りるわけですが、旧峠道は細いので車の通行が可能なのか心配したのですが、幸い対向車がこなかったので難なく越えることが出来ました。尾花沢は羽州街道の旧宿場町として発達したところで、芭蕉は、尾花沢の豪商、紅花を江戸、京都、大阪へ運んで商売をしていた俳人でもある鈴木清風に歓待され11日間も滞在しています。清風の案内で近くの養泉寺に宿を移し、歌仙を巻き7泊しています。
 養泉寺は上野寛永寺の直末の寺で山寺と同じように慈覚大師・円仁によって開基されています。門前を旧羽州街道が走り、坂を下ると目の前に田圃が広がり、その地平線の奥に葉山が大きく裾のを広げる雄大な姿を現します。また右脇から月山が姿を見せることがありますし、天気のいい日には鳥海山まで望む事ができます。旧羽州街道の巾2メートルもない土の道を歩くと昔の時間が流れているような錯覚に陥り、まして雲の切れ間から陽が差し込み田圃を照らす出羽の自然の美しさには、ただただ畏敬の念に満たされます。奥羽山脈の左に位置する出羽国、山形は月山、湯殿山、羽黒山を称した出羽三山と鳥海山、磐梯朝日国立公園、蔵王山があり、まさに神々が降臨する信仰の山々が連なるのです。
 芭蕉も奥の細道の中で唯一、土着の文化に触れながら山形には一番長く滞在しています。また尾花沢だけでなく、酒田、鶴岡でも地元の人達と歌仙を巻くことができるということは、文化的にも非常に高かった証だと思います。その文化を支えた大きな要因は河村瑞賢の開いた西回り航路と酒田には天領の御城米の蔵があって千石船が盛んに出入りした物流の拠点があったことです。
 朝日岳にどうして朝日という名がついたのか山形で朝を迎えたときに初めて納得しました。当たり前の話しですが太平洋側に住んでいる私は、朝日は海の地平線から上ってくるので海に名前は付けませんが、出羽の国では山から朝日が顔をだすのです。
それで朝日岳というのかと、いたく納得する始末です。

  ●朝日岳 山の峯から 顔を出す 朝の光は 今日の始まり

出羽国、山形の旅は、当たり前のことに感謝する日々を重ねました。


和歌で訪る『奥の細道』達谷窟

中尊寺(ちゅうそんじ)・毛越寺(もうつじ)を巡り、再び車で移動します。目的地はここから15分くらいで着く達谷窟(たっこくがいわや)です。ここは芭蕉は寄っていませんが、蝦夷の王の阿弖流為(アテルイ)、悪路王とも言われた人物の伝説が残るところです。この地方の豪族がモデルとなったと言われていますが、平安時代初期、789年より桓武天皇が東北の蝦夷討伐のために大群を進めたのですが、岩手の胆沢で蝦夷を組織して徹底抗戦した阿弖流為に政府軍は大敗北してしまうのです。
797年に征夷大将軍として任命された坂上田村麻呂は、801年の第三次制圧の時に胆沢を平定し、阿弖流為を捕虜として京都に連れ帰りました。坂上田村麻呂の本心は阿弖流為を朝廷のために東北で働かせようと助命を嘆願しましたが、公卿達の反対に願いかなわず、阿弖流為は河内で処刑されてしまいました。

  ●無念にも 蝦夷の王の アテルイの 名を留め置く 達谷がいわや

 また一説には、坂上田村麻呂が達谷窟において阿弖流為の首を刎ねて帰路の途中、茨城県東茨城郡桂村高久にある鹿嶋神社に首を納めたと言われています。
納められた生首は、その後形こそ置き換えられはしたものの、累々と村に引き継がれて来たのですが、保存が難しくなってきたので、桂村の鹿嶋神社にはレプリカを安置して、現物は茨城県立歴史館に保管されたということです。一般公開は勿論されていませんが1999年の夏に桂村高久の鹿嶋神社の氏子総代の加藤さんに特別の計らいをいただき、県立歴史館に預けられ、すでに水戸藩主徳川光圀の時代に二回目の修理をした記録が残っている本物の恨みのこもった、さらし首の頭形を見せていただくことになりました。 その頭形は歴史館の二階の一室に置かれていて、職員の方もあまりの生々しい迫力に、いつまでも残像が残るため幾人も見ていないということです。
 いよいよ約束の日になり、落ち着かない気持ちで東京を8時頃出発し、2時間30分ほどで対面することになったのです。桐箱に収められていて、箱の上部を持ち上げると、現れた頭形は赤い漆の台座に置かれ、武将の生首とはほど遠く、髪はザンバラで両眼はカッと見開き、歯はむき出しで今にも高笑いが聞こえてきそうです。
人の手で作られたものと解っているのですが、使用している髪は人毛で、顔の皮膚もいかにも人のものらしく、虫食いで削ぎ落ちているので、かえって生首そのものに見えまるのです。そのうえトロリとした時間の中を漂っている臭いもします。以前は横にすると両眼を閉じ、起こすとカッと見開いたそうです。
この機会を頂いたのは加藤さんや歴史館の職員のご強力があったればこそ、と感謝なのですが、お礼を申し上げて1時間ほどの対面を済ませ、県立歴史館の外に出て青い空を見上げたときに、ホットした気分でした。
 


和歌で訪る『奥の細道』平泉

 松島を後に海岸線を石巻に向かいます。石巻の由来は北上川河口の住吉神社の神石(烏帽子岩)に川流が渦巻く巻石が石巻になったと伝えます。旧北上川に臨む住吉公園にその巻石が現在遺されているそうですが、寄らずに北上川に沿って、一関街道を登米、花泉町、一関と義経が京より下り藤原秀衡の所へ向かった道をたどります。

  ●衣川 束稲山に 別れ告げ 義経主従 高舘去りぬ

 一関に着くと左に折れ国道4号線(奥州街道)を8キロほど北上すると、いよいよ栄華を誇った平泉に着きます。まずは右手の東北本線をまたぎ、義経の木像を祀ってある高舘に上ります。『義経記』によれば、武蔵坊弁慶、片岡八郎、鈴木三郎、亀井六郎、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢三郎、備前平四郎の総勢8人が華々しく戦って主従共々、最期を遂げた場所が高舘です。高舘から遠望すると正面に北上川を夾んで束稲山が大きく裾のを広げています。
 義経の歴史はここで閉じるのですが、はたして世界的に見ても希な第一級の戦術家である義経が主従共々、討たれるのが解っていて、戦い死ぬことなんてあるんでしょうか。集団自殺以外、万に一つもありえないと私は思うのです。
この話しになるときまって、作家のS先生はあきれ顔をして、「あんたってバッカね」と言ったまま、言葉を失い無言の時間が流れます。勿論、歴史学者にも通じないことは百も承知の上ですが、しかし民間伝承においては逃走経路が、かなりはっきりと残っているから不思議です。
 義経がジンギスカンにならないまでも、出奔して岩手県の宮古を経て青森から北海道に逃走したと考える方が自然です。補足すると義経とジンギスカンの生まれは、ほぼ同年で、高舘で義経没後17年後にジンギスカンは即位しているのです。

  ●金色の 蝦夷の都 平泉 一百年の 栄華を誇り

 衣川の流域は前九年・後三年の古戦場で俘囚の長の阿倍頼時や、奥羽に覇権を確立した藤原清衡が戦った所です。その初代清衡が二十二年の歳月をかけて数々の大伽藍を建立し、東北独立王国の文化の拠点としたのが中尊寺です。中でも金色堂の華麗な室内と安置された三代の遺骸は当時の平泉のすばらしい文化を彷彿させるものがあります。


和歌で訪る『奥の細道』仙台

●朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて 枯野の薄 形見にぞ見る(西行)
この歌から「かたみのすすき」という名所が生まれました。この塚に生えている薄は道祖神社の北方1キロ、車で5分くらいの所にあります。「藤中将実方の塚」として1000年以上も語り継がれ、きちんと保存されていることに和歌の力をあらためて実感する次第です。西行を崇敬していた芭蕉はここを尋ねたかったのですが五月雨の道のぬかるみに諦め、武隈の松を見た後は無念の思いで笹島を遠望し仙台に向かいます。    笠島は いずこ五月の ぬかり道(芭蕉)

●東方の 常世國の 日高見は 日の本はじめ 祀りごとせむ

青葉城を回り込んで流れる広瀬川は日辺で名取川に合流して一気に太平洋に入ります。名取大橋を渡り伊達政宗六二万石の城下町の仙台に入ったのは、もうたっぷりと陽も沈んでいるのでホテルに直行し、芭蕉も泊まった國分町で牛タンを食べながら往時を偲ぶために一杯やることにします。
 明治四年の廃藩置県で仙台藩を仙台県としたのですが、八世紀に記された『続日本紀』に「宮城郡」としてみえるので、まもなく宮城県と改称したのですが、それよりずっと神代の昔、仙台平野は「日高見」と呼ばれていました。
 日高見は宇宙祭祀の拠点として神々に最も近い聖地であて、日本の心臓にあたる所です。
 磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の呼称を陸奥(みちのく)と言いますが、しかしなぜミチノクと言うのか知れていませんでしたが、神代にアマテル神が若き頃、日高見の多賀におられたトヨウケ神に天の道を学び、「道の奥義」を捧げられたのでミチノオクギがミチオクになり縮まってミチノクになったのです。
 その中心地であったとされる多賀城域は、後に8世紀初め大和朝廷の蝦夷対策の一環として多賀城が築城された所でもあります。北側に旧塩竃街道が通っていて陸奥総社宮がありますし、反対の南門の近くには、壺碑がお堂の中に安置されています。また近くに東北歴史資料館があって、ここのランチはとてもおいしいのです。
 
 ● ミチノクの 奈良の国府の 多賀城跡 壺のいしぶみ ながながめくに

 芭蕉も日本の壺としてのミチノオクの多賀城にある「壺の碑」を訪ね、昔をしのび俳諧の道の奥義を悟って涙をこぼしたと記しています。歌枕の「末の松山」や「沖の石」を訪ね、その後、塩竃神社や御釜社の製塩用の大釜を見物しています。
 塩竃を後に「松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず」と絶賛している風光明媚な松島へは船で渡っていますが、車で走ると20分ほどで着きます。
松島湾の観光船が発着する騒がしい港から左手に突き出た島に五大堂が見えます。足下から波が寄せたり返しが見える橋を渡り五大堂を見物した後は、伊達政宗が五年の歳月をかけて再興した瑞巌寺を見るのも結構です。


和歌で尋る『奥の細道』武隈の松

 古戦場を後に国道を暫く走ると宮城県に入り馬牛沼を左に見ることになります。そこからすぐに右の旧道に入ると鐙摺坂を下ります。奥州から南下する義経の軍勢がこの坂を通ったとき道が狭いので鐙をこすったと言われている所です。
● みちのくの こおりの桑折 桃の里 右は奥州 左は羽州
鐙摺坂を下ると右手に坂上田村麻呂を祀った田村神社があります。ここに
昭和初期に建て替えられた甲冑堂があって、継信、忠信の妻の楓(かえで)と初音(はつね)の美しい甲冑姿が再現されています。というはずなのですが、この日は雨模様のため金網ごしに中は暗くよく見えませんでした。
 30分程で白石(しろいし)に入ります。旧街道に面した竹駒神社に寄ります。この古社は陸奥の国守だった小野篁(たかむら802〜852)の勧進によって9世紀の前半に建てられたと言われています。随身門を通り次の向唐門にゆきあたると、浅草の雷門に吊されている大提灯のような大きな提灯が日本三大稲荷のひとつを誇示しているように吊されています。
 近くにみちのく入りの際は挨拶が習慣になっていると言われ、能因法師や西行も尋ねている「武隈の松」があるので歩いて行って見ます。
●武隈の 松はこのたび 跡もなし 千年を経てや 我は来つらむ(能因)
能因法師が再び尋ねたとき、跡形もなく無くなっていたので嘆いて詠んだ歌です。どんな姿をしている松かと思って行ってみると、たしかに道路沿いに根本から二木に別れて空に伸びている松がありました。何度か伐られ植え継がれ、今の松は7代目と称しています。松の木や柳の木が口伝で1000年も受け継ぎ、心の歴史を大切にして行くところに、日本の精神文化の特徴があるのだと気がつきます。
● みちのくの 二木の松に ご挨拶 歌人にならい めでたき松よ
この後、悲運の貴公子藤中将実方の笠島を尋ねます。芭蕉は実方の墓はどこかと土地の人に聞くと、「これよりはるか右に見ゆる山ぎはの里を、蓑輪・笠島と言ひ、道祖神の社・かたみのすすき、いまにあり」と教えます。
藤原実方は円融・花山・一条の三天皇に仕えた平安中期の歌人です。
蔵人頭の行成は「歌はおもしろしろいけど実方は愚か者」と言ったことに恨みを抱き、殿上で口論となり、行成の冠を打ち落としてしまいます。この事が原因で主上から「歌枕見て参れ」という命を受け、陸奥守に左遷され、後にこの地で没っするのです。ここは以前、荒俣宏さんと取材に来たのですが、なにかちょっとしたことでも「歌枕見て参れ」というのが口癖になった事を思い出します。著書『歌伝枕説』世界文化社1998発行。
道祖神の社とは笠島の道祖神社のことで、この神社の前を実方は馬に乗ったまま通ろうとしたため、神罰が下り、落馬して亡くなったと伝えます。


和歌で尋ねる『奥の細道』しのぶの里


● 信夫たつ 安寿と厨子王 幼くも 死生を越えて 母にいだけり 

 信夫の里にはもう一つの伝説が有ります。新幹線の福島駅から国道4号線越しに右手の方に椿山という小さな小山が見えます。ここは森鴎外の小説『山椒太夫』人買いの話しで知られる安寿と厨子王が国を立つ所が椿山です。日の本の将軍、岩木の判官、正氏殿は帝の勘気にふれ九州の筑紫安楽寺にえん罪で流されます。姉弟の父に会いに行きたいと慕う心にほだされて母と乳母は4人で国を立ち、いく夜も野宿をかさねて行く途中、直江の浦で人買いにあって母と離ればなれになってしまうという悲しい話しです。これは故水上勉先生と一緒に取材をして新潮社から出版された単行本『説経節を読む』のなかに書かれています。ここでなぜ姉弟の話がが出てきたかといいますと奥の細道の越後路のところで直江津(直江の浦)で芭蕉も句を詠んでいるからです。
  ● 義経に 信夫の里の 兄弟は 着き従へて 名をば残しぬ
 鉄道は福島駅からまもなく奥羽本線と東北本線とに別れます。東北本線沿いの奥州街道は、義経カラーがだんだん色濃くなってきます。そのはじまりは飯坂の佐藤基治の菩提寺、医王寺です。   笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼり(芭蕉)
謡曲『摂待』は継信・忠信の母が山伏の接待をしているとき、都を逃れてきた義経主従が立ち寄ります。そのとき弁慶は屋島の合戦で義経の身代わりになって兄の継信が亡くなったこと、弟の忠信が敵を討ったことを語って聞かせます。けなげにも遺児の鶴君が亡くなった父を偲びながら、主従12人に酒を給仕するという物語です。
 医王寺は生前、三波春夫さんと佐藤一族の供養をかねて参詣したことがあります。
一門をあげて悲運の道へ落ちていったとされる佐藤基治の妻は鎌倉勢が攻めてきた後、落ち延びて新潟に入ったと、越後に歌として残っているから間違いないと三波さんはおっしゃったけれど、地元の関係者はそんなことはないと意見が分れたのです。
 飯坂から6キロほどで伊達郡桑折町に入ります。ここは伊達氏の発祥の地です。幕末期は幕府の直轄領でしたが、維新とともに明治政府に接収されました。しかし東北戊辰戦争の影響下、伊達郡の住民は新政府に反抗的だったと言われています。
桑折の町からまもなく厚樫(別名国見)山の麓、東北屈指の古戦場に着きます。
 天下統一を目指す頼朝は平泉攻略に打って出ます。これを迎え撃つ泰衡(やすひら)
の奥州軍は厚樫山の麓、伊達の大木戸で激戦になるのですが、圧倒的な数を誇る頼朝軍の前に、佐藤基治も討ち死に総崩れになりました。約100年、三代にわたって栄華を誇った奥州平泉が滅びゆく因縁の地でもあります。芭蕉は「道縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」とありますが、激戦で戦死した人々の霊を鎮めるため天地東西南北の六方に足踏み(相撲の四股)をして越えたということです。


和歌で尋る『奥の細道』黒塚

乙字ヶ滝をみて後、阿武隈川を渡し船で対岸に渡り、その日は郡山に泊まっています。曽良の日記には「宿ムサカリシ」と書かれているので、きっと小さな特徴のない宿場だったのでしょう。翌朝早くに旅たち日和田の先にある安積山(あさか)に寄って「かつみ」の花を探しまわっています。
  ●安績山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わがおもはなくに(万葉集)
  ●みちのくの 浅香の沼の花かつみ かつみる人に恋ひやわたらん(古今和歌)
またこの地を訪れた藤中将、藤原実方が五月の節句に菖蒲を飾る代わりに「かつみの花」を飾れと土地の人に教えたという故事を意識して、芭蕉は「あやめ」をひとまわり小さくした「かつみ」を探し回ったのです。現在ではヒメシャガということにおちつき郡山市の市花になっています。歌枕のあさか山は小丘公園で、さくら祭りでにぎわいをみせたり、反対側に野球場があって市民の憩いの場所になっています。
 あさか山から旧奥州街道を20分ほど北上すると近世の要衝であった本宮に入ります。街道から左手に安達太郎山が裾のを広げ大きく美しく見えます。街道脇に安達郡の総社、安達太郎神社があって健脚な方は300段の石段を登ってみるのも一計ですが、左手に細い車道があるのでこちらを利用するほうが楽です。社殿の柱に維新の戊辰戦争で傷ついた鉄砲の傷跡が今も残っています。
 本宮を後に二本松に入ります。ここは謡曲『黒塚』で知られる鬼婆伝説があって街道右手の奥に観世寺が見え、境内の資料部屋には娘を食っている凄惨な鬼婆の絵巻物が展示されています。
  ● みちのくの 安達の原の 黒塚に 鬼もこもれりと いふはまことか(平兼盛)
自分の娘を食うなんてとんでもない婆ですね、とS先生に言うと「女の性で鬼婆になりたくてなったのではなく、かわいそうな婆なんです」と鬼婆の肩をもつものですから、「昔から鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺というのはいないのでしょうね」とからかい半分に言ったものですから、あとの連載に女の私への、あてこすりだと書かれる始末、これからはもっと『奥の細道』に沿って文学性の高い取材をしなくてはと心を入れ替えた次第です。また近くに高村光太郎の妻智恵子の記念館もあって彫刻・詩・絵などを鑑賞すれば一気に文学の旅に変わること請け合いです。
●みちのくの 安達ヶ原の 道奥に 鬼のこもれる 大磐ありて
黒塚もなんとか無事に取材を終えていよいよ信夫の里に向かいます。シノブノサト、この音の響きに、なぜか懐かしさを感じます。
● みちのくのしのぶもぢ摺りだれゆえにみだれそめにし我ならなくに(古今和歌)
河原左大臣、源 融(とおる)と虎 女(とらじょ)の悲恋の伝説が文知摺観音の境内にある大きな石に伝わります。芭蕉は「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」と手首に着けて、しのぶ摺の艶やかな手甲や筒袖の動きを詠んで王朝の昔をしのび嵯峨天皇の皇子の融と虎女の供養しています。


和歌で尋る『奥の細道』乙字ヶ滝

もう少し白河関の話しをします。芭蕉が歩いた旧奥州街道と白河関があった古奥州街道は平行しているものの伊王野から白河までは山を夾んで右側を通る坂本白河線と左側を通る国道294線とに別れています。義経が鎌倉に上るときに走った中世の奥州街道は坂本白河線になるわけです。この街道を白河の関から2キロほど南下すると追分明神に着きます。車一台が通れるほどの街道から苔むした細い石段が続き、見上げると小さな祠が見えます。ここが義経が平家追討の祈願をした追分明神だとすると、芭蕉はぜひに尋ねたかったはずです。白河関を後にいよいよ義経供養の巡礼の旅がはじまります。

    ●阿武隈の 乙字ヶ瀧の やさしさよ 人を飲み込む 怖さを秘めて

芭蕉は白河を経て矢吹に泊まり須賀川に着くと深川以来の交流があった諸色問屋の相楽等躬のところに7泊8日を過ごしています。等躬はこの地の俳諧の中心的な人だったので、おおいに芭蕉をもてなしました。須賀川を発つ日に俳人たちの勧めもあって奥州街道を行かず、石川街道を迂回して阿武隈川にかかる乙字ヶ滝を見物しています。川床全体が切れ落ち込み落差はたいしたことはないのですが、川幅一杯に広がる光景は息を呑むものがあります。夕刻もせまり宿に引きあげましょうと声を掛けるのですが、滝の壮観さに作家のS先生は長いあいだ佇んでいます。特に乙字ヶ滝は夕闇がせまると深い闇に引き込むような危険な場所なので、川辺に何時までも立ちすくんでいると危ないですよ。とご注進申し上げたのにまったくひどい話しになりました。
「奥の細道」の連載誌にそのことを理解されず書かれてしまい不覚をとりました。
 「ごめんなさい。すっかり待たせてしまったわね」あやまりながらその顔を見ると、血の気を失って青白い。「どうしたの?気分でも悪くなったの?」と言いかけて、私は気づいた。Kさんは体躯堂々。空手道場にかよう偉丈夫なのに、じつは見かけによらず気が小さい。林中のあちこちに建つ水難者供養の石塔や墓‥‥。それが怖くて、じっとひとところに立っていられなかったのである。「しっかりしなさいよ。彼らの命を奪ったのは水ですよ。冥福を祈っている私たちに、祟るわけはないでしょう」
「そうですよねえ」と頷きながらも、Kさんのそわそわは止まらない。理性では判るのだが、怖さ気味悪さは抑えようがないらしい。仕方なく滝に見を切りあげ(さようなら。安らかにお眠りくださいね)そう心の中で死者たちに別れを告げて、私は堤防下に止めてある車に乗り込んだ。(2004オール讀物連載)
雑誌の発売日にS先生に抗議を申し込んだのは言うまでもありません。しかし電話の向こうで「本当のことでしょ」と一喝されました。作家と編集者との信頼関係にひびは入りませんが、滝よりも女性の怖さを知りました。


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